誰にでも聞いてほしい。私が生きてて良かったって思える話。

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生きてて良かったって思えるまでは長かった。

正直なところ生きてる意味なんて全然分からない。

何のために生まれて、何を目的に生きてるかなんて。

すごく辛い状況に陥った時、そう考えてしまう。

「誰かに必要とされてるんかな?」と。

どんなに考えても答えなんて見つからないし、考えるだけ無駄だと思った。

だって、生きてるんだから。そのことについて考えれば考えるほど、しんどくなってしまうだろう。

だから、私はそのことについて考えるのをやめた!

私は、一人ひとりの人生はすごく不平等だと思ってしまう。

その考え方は、皆それぞれ違うだろう。

でも私はそう思う。

だって、産まれる国や時代、環境なので全然人生は変わってくるでしょう。

もちろん100%の確率で五体満足で産まれるとも限られない。

ものすごく貧しい国で生まれ、戦争があったり医療が発達していない国など様々です。

どんなに環境が良く金銭的にも不自由ない家庭に生まれたとしても、努力し続ければ必ずしも報われるとは限らないだろう。

でも、どこでどんな形で産まれようとその人自身の考え方次第で、その人にとって幸せと捉えるか不幸と捉えるかは全然違います。

三者がその人が思う幸せをどう捉えるかは、別に関係がない。

人それぞれ考え方や価値観は全く異なります。

自分が思う幸せを日々心に刻みながら、その幸せが続くように努力し、大切に過ごしていくべきです。

私は現在もまだまだ子供ですが、もう少し何に関しても未熟な子供の時は、「自分は周りの子に比べて不幸な子」だと自分で思い込んでいました。

生きていて楽しいこともありますが、それ以上に辛い時の方が多いと感じ、「楽しいや幸せ」という感情より「苦痛や悲しみ」という感情が、私のまだ幼い心を染めていきました。

私が物心がついた頃から、母親が居らず父親と一つ年上の姉との3人の生活が当たり前のようでした。

お父さんは、病気を持っていながら毎日仕事に行っていました。

母親が居ない分、洗濯物や洗い物、掃除機やお風呂掃除など家事は、姉と2人で当番を決めてやっていました。

お父さんは少し厳しく、怒ると酷く怒鳴ったり手を上げたり物を投げ当ててきたりで、私と姉は昔からお父さんに恐怖を感じていました。

友達からも、「お父さん怖いな」と言われ続けそれで遊ばなくなった友達もいます。

でも、それでも優しかったり面白かったりするお父さんが大好きでした。

学校に通っていると、どこでも授業参観、音楽会などの様々な行事があります。

もちろん周りの子供達の両親は観に来ています。

だけど、私の親は父親だけで仕事で忙しく大半を観に来ることがなかったです。

それはもちろん寂しい気持ちでいっぱいでした。

観にきて欲しいと何度も頼んだこともありましたが、その願いも虚しく来ることはありませんでした。

小学校低学年のある授業参観の時に、隣の席の友達に「お母さん観に来てくれないの?」と、聞かれました。

その時初めて、周りの子の母親を見て羨ましいと感じ、自分のお母さんについて考えました。

「私のお母さんはどんな人なんやろう?何処にいるんやろう?」と。

その日家に帰ってお父さんに聞いてみました。

すると、お父さんは直球に「お前らを捨てたんや。」

と言いました。

もちろん私はその言葉の意味をすぐには理解出来ず、詳しくお父さんに聞きました。

どういう意味なのか、なぜ捨てたのかを。

理由は簡単に「子供を育てるのがめんどくさいから。」と言いました。

私も姉もショックの域を超えていました。

それでも幼い私と姉は、もちろん恨みなどといった気持ちはなく、ただただ会ってみたい!という欲望でいっぱいでした。

お父さんに率直に「お母さんと会ってみたい。」と伝えると、強く反対されました。「お前らをなんとも思ってないんやぞ!捨てたんやぞ?」と。

もちろん悲しさは隠し切れないほどありました。

でも、母親が居なくなってから数年も経てば、子供に対する気持ちに変化があるかもという期待がありました。

お父さんにしつこく言い続けた結果、渋々許可をもらい、お母さんに会えることになりました。

私と姉は会う日が来るまで、心を弾ませながら待ちました。

そしてついにその日が来て、待ち合わせ場所までお父さんと姉と一緒に向かい、私の記憶上初めてお母さんと顔を合わせるので緊張でいっぱいでした。

お母さんは、とても嬉しそうに笑っていて私と姉に駆け寄り、強く抱きしめてくれました。

初めてのお母さんの腕の中は、実感はないが嬉しさのあまり、私も姉も涙が溢れました。

そして、お父さんとお母さんは少し話をして、お父さんは私と姉に手を振り家へと帰って行きました。

その日は一日中お母さんと私と姉の3人で過ごし、いろんなところへ連れて行ってくれてとても幸せな気分でした。

私と姉は小さい時から片親で、家庭が厳しかったせいか、お小遣いは貰えませんでした。もちろんお年玉もです。その時お母さんに内緒でお小遣いを500円くれていたのが、すごく嬉しかったです。

そして約束の時間が来て集合場所でお父さんが待っていて、お母さんにお別れをして家に帰りました。

私は別れた後も、楽しさと嬉しさで余韻に浸り夜も眠れませんでした。

後日お父さんに、「またお母さんと会いたい」とお願いしました。

そしてお母さんとは、毎月第三土曜日に会う約束をしました。嬉しそうにする私と姉を見ていたお父さんも、いつもより上機嫌で私はますます幸せを感じました。

それから月日が流れ、中学生になった頃も月に一度お母さんに会える日を楽しみに過ごしていました。

そんなある日、私はお父さんと小さな事ですれ違い、それから口を聞く回数も減り、お父さんと過ごす日々が嫌いになってしまいました。

それからお母さんと会うたび「お母さんと一緒に住みたい」という気持ちが増し、私はお父さんにお母さんと一緒に住みたいと言いました。

会うことにも反対しているので、一緒に住むなんてもちろん反対されるのは目にも見えていましたが、それでも強気に「家を出たい!」と気持ちを伝えると、お父さんは目の色を変え怒り、私を呆れ返った目で見ていました。

それでも私の気持ちが折れそうもないと判断したお父さんは、私のこと少し見放したかのように承諾しました。

後日お母さんとお父さんと集まり、その話をするとお母さんも承諾してくれました。

すると、少し前にお父さんが「お母さんと再婚考えようかな」と言っているのを思い出し、それをお母さんに伝えると、なんとも奇跡かのようにお母さんも「私もそうしたい」と答えてくれました。

それから私は、家を出るのではなくお母さんも含めた家族で、家で過ごすことになりました。

毎日順調に過ごしていたはずなんですが、1ヶ月後には上手くいかず話し合っても解決せず、結局私とお母さんが一番揉めてしまい、お母さんの口から「子供に対して一切愛情はない。お父さんしか好きじゃない。」と言われ、私は実の母親に向かって決して言ってはいけない言葉を放ち、お母さんはその言葉の重みを知った上で微動だにせず、また離れて暮らすことになってしまいました。

月に一度会っていたその約束もなくなり、お母さんに会いたいという気持ちすらなくなりました。

「こんな辛いんやったら、いっそ母親なんか居らん方がマシや。」と酷くお母さんを軽蔑しました。

私だけでなく、お父さんまで窶れてしまい病気も悪化し、それでも休むことができない仕事に毎日働きに行きました。そのストレスは私と姉に当たってくることが多く、私はそれにすごく不満を抱えていました。

それから限界だと感じた私は、従兄弟の家に約一年間家を出ました。

従兄弟の家で過ごしている間、従兄弟の叔母さん(お父さんのお姉さん)に、お父さんの愚痴をばら撒きました。叔母さんは、「辛かったな。可哀想に。」と同情し、よくしてくれました。

そして一年が経とうとしたある夜のこと、叔母さんが私に話があるからと呼び出されました。

その空気はとても重苦しくて、まだ何も言われていないのに威圧感だけで息苦しい空気でした。

叔母さんは「あんたは一人で生きてるわけじゃなく、お父さんのお金で生かしてもらってるのにそんな悪口ばっかり言って、最低やな。黙って聞いてたけど、あんたみたいな人間見たことないわ。これ以上もう聞きたくないし実家帰り。」と言われて、ずっと優しく共感してくれてた叔母さんの急変に呆然としながら突っ立っているだけの私でした。

実家に帰るように言われ一年間顔を合わせずにいたお父さんと会うのを嫌に思いながら、帰るとお父さんも姉も私に対し他人行儀な態度で接し、実家に帰って1ヶ月と少しは、ずっとその調子でまともな会話も一切せずいました。

その時、私はものすごく自分を責めました。

叔母さんに言われた言葉をよくよく考えていると、自分が情けなくどれだけ最低なことを家族にしたんだろうと、自分を軽蔑し酷く嫌いました。

それからお父さんと姉は普通に接してくれるようになり、私は物凄く家族を大事に思い生きていくようになりました。

高校生になり、お小遣いがなく友達と遊べなかった日々でしたがアルバイトも始めることが出来る年に私は浮かれ、すぐにアルバイトを始めました。

そして今までお父さん1人で育ててくれた感謝の気持ちとして、毎月生活費を家に3万円入れました。

その行為は、「お父さんがそれで少しでも楽になれば」という自らが望んでしている事なので、何一つ苦に感じることはなかったです。

しかし、私は普段の門限に関して少し不満を持っていました。門限は18時半です。高校生になったのに、さすがにそれは短いと感じた私は、門限を少し破ってしまったらしていました。もちろん酷く叱られます。でも、それを繰り返すうちに門限は20時まで延びました。

友達の家にお泊まりも行けませんでした。

でも、「自分が未成年で何かあれば責任は全てお父さんに行ってしまう。」と理解しました。

高校卒業後、すぐに介護職を始めました。

社会人になった今でも、未成年というのは変わらないので門限も変わらず20時のままです。

学生ではないので、家に入れる生活費は2万円プラスされました。

すごく大変です。

でも、それでも私はこの生活がこの家族が大好きです。

私は心底幸せだと思いながら生きています。

ここまで厳しくしてくれたから、今の自分がいると思います。

私は、自分自身の性格など全てが好きです。

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たくさん辛いことも経験しました。

その上で家族の大事さが分かりました。

私よりもっと辛い思いをして生きている人なんて、星の数程いるでしょう。そう考えれば自分の悩みなんてどれほど小さいものか。

私は幸せだ。生きてて良かった。私を産んでくれた両親にとても感謝しています。

失敗も人生の一つです。

どん底に落ちてしまったなら、それ以上落ちることはないでしょう。落ちきったなら、あとは自分がどこまで頑張って這い上がれるかです。

自分で自分の限界を作って諦めてはいけません。

何事もポジティブに考えてみてください。

辛いこともばかりではありません。

少し見方を変えるだけで、捉え方は全然変わってくるのです。

まずは、もっと自分を認め大事にしてください。

「自分を大事にできない人は、他人も大事に出ない。」

本当にその通りだと思いました。

まだまだ先が長い人生です!これからも今まで以上にたくさんの経験を積んでいきます。

そんな時、どんな事があっても前向きに生きていきたいです!

長々とお話ししましたが、最後まで読んで頂いて有り難うございます^ ^